海外飛び出すことになったブログ

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Book Review『表徴の帝国』

 

表徴の帝国 (1974年) (創造の小径)

表徴の帝国 (1974年) (創造の小径)

 

 好き度: ★★★☆☆

 

2%も理解できなかった悲しい。。難しい。。わからん本って苦痛で悲しくなるけど、いつぞやぱっとわかるかも、みたいな期待とともに読むのもそれはそれでおつ。

 

ロラン・バルト(1915-80年のフランスの思想家)が日本を観察したものです。

 

 

大学時代にウィーン都市論という授業を取って、そこで「西洋の街は中心に広場があります。対照的に、日本ではロラン・バルトがいったように中心は空虚です。皇居がそれですね。」と先生がいっていた。

それ以来なんか印象に残っていてずーっとmy読むリストにこのロラン・バルトの『表徴の帝国』はあったのです。が、ずっと放置してて、今般アフリカ行く前に読みたい本全部読んどこうキャンペーンの一環で、ついに、まじでついに、読んでみた。そしてこの理解できなさ、、、!

 

いろんなレビューやWikipediaも目を通したけど???1996年のちくま学芸文庫版も訳者が同じ仏文学者なのでそっち読んでも同じかなぁ?

 

たぶん、この本は様々な違う点に着目しながら同じことを繰り返し繰り返し言っているんだと思う。日本の、いってしまえば文化?の細部をひとつひとつ観察して、記号論的な見方で解釈する。本当に細部。和の御膳の小皿、パチンコのしくみ、文楽、俳句、禅、日本人の瞼など。

 

てんぷらのことを丁寧につづっている場面なんかは、滑稽に思えるくらいバルトは真剣。それが日常な日本人、というか私にしたらくすっとなる。

 

以下、なんとか理解できてかつ素敵だなと思ったところを5つ、メモ。

 

<箸>

箸は、食べものを皿から口へと運ぶ以外に、おびただしい機能をもっていて、そのおびただしさことが、箸本来の機能なのである。箸は、まずはじめにーその形そのものが明らかに語っているところなのだがー指示するという機能をもっている。…同じ一つの皿のなかの食べものだけを、機械的に何度も反覆して嚥み下して喉を通すことをさけて、箸はおのれの選択したものを示しながら(つまり、瞬間のうちにこれを選択し、あれを選択しないという動作を見せながら)、食事という日常性のなかに、秩序ではなく、いわば気まぐれと怠惰とをもちこむのである。

 

<中心ー都市 空虚の中心>

いっさいの中心は真理の場であるとする西欧の形而上学の歩みそのものに適応して、わたしたちの都市の中心はつねに《充実》している。つまり精神性(教会が代表)、権力性(官庁が代表)、金銭性(銀行が代表)、商業性(デパートが代表)、言語性(カッフェと遊歩道をもつ広場が代表)、これらが集合し凝縮しているのは、まさにこの特別な場所においてである。…都市(東京)は、次のような貴重な逆説、《いかにもこの都市は、中心をもっている。だが、その中心は空虚である》という逆説を示してくれる。禁域であって、しかも同時にどうでもいい場所、緑に蔽われ、お濠によって防禦されていて、文字通り誰からも見られることのない皇帝の住む御所、そのまわりをこの都市の全体がめぐっている。

 

<文房具店>

日本の文房具店のあつかう事物は、表象文字風のエクリチュール(表現体)である。そのエクリチュールは、西洋人の目には、絵画からきているように見える。ところが、じつはほかならぬそのエクリチュールが絵画を生んでいるのである。…特徴線は削除となぞりをしりぞけていて(なぜなら、文字はアラ・プリマ(根源的)に書かれるものだから)、消しゴムやその代用品などの発明はまったくない(消しゴム、はっきりと消し去ってしまいたいと人の願うシニフィエ(表徴されるもの)の象徴、あるいはせめてはその充溢をやわらげ薄らげたいと人の願うシニフィエ(表徴されるもの)の象徴である消しゴム。しかし、西洋のまむかい、東洋においては、鏡は空虚である。

 

<書かれた顔>

女形は、女性そっくりの化粧をして、女性らしい情感をたたえ、女性を生き写しにした、工夫の限りをつくして女性に化けた男性ではなくて、純粋な表徴体なのである。この表徴体の内部(真実)は秘密でもなく、またこっそり表徴されているのでもない。内部の男性はただ、不在化されているのである。俳優は女形の顔をつくって、女性を演じているのではない、女性をコピー(複写)しているのではない、ただ単に女性を表徴するのである。…これは西洋では思いもよらないことである。西洋にあっては、女形それ自体がそもそも思いもよらないこと、許されないことであり、純粋な本質違反なのである。

 

<数百万の個体>

(漢字という)表意文字の記号をごらんになっていただきたい。それらは専制的ではあっても限界をもつために憶えやすい音声学的秩序(アルファベットーいろは)の外にあるので、論理上は分類しがたいものでありながら、しかも辞書のなかに分類されてはいっている。この辞書のなかにあって、表徴の類型を決定するものは、ーエクリチュール(表現体)と分類とにおいて、じつにすばらしく肉体が現われでるのだがー表意文字を書き記すに要される動作の数と順序なのである。

 

外部の人間だからこそ、細やかに発見できる部分があると思う。外から来た日本人が、別の大陸にあるマラウイという地で生活して見えてくるものってどんなんだろうか!わくわく!

 

ではまた~